TOKYO syndrome

何が好きかって聞かれたら、結局のところ「TOKYO」にすべて終着するんだと思う。 “ヤツ”が必ずいると信じて、人はここに吸い込まれてくる。 この状況はまさに、「TOKYO syndrome」

-----

--

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

05-23

2015

Boyfriend part II / Crystal Kay

これまでの人生で
いちばんたくさん聴いた曲ってなに?


その答えを見つけるのは困難だけど
Top50と言われたなら
確実にこの曲はリストインされる。

「50って多くない?」
とか言われそうだけど、
けっこう長いこと生きてきたのよ。
10にさえ絞りきれないわ。



Crystal Kay「Boyfriend part II」

 この街で出会って わたし あなたに恋をした

歌詞は、このひと言から始まる。


ちなみに
part2というのは文字通り
バージョン2といった意味なのだろうけど、
「はじめてのボーイフレンドとは
お互い幼すぎてうまくいかないもの」
みたいな通説のにおいも感じられたり。


この曲は、音も歌詞もすさまじくすきだけど、
とりわけこの動画は
ギターとのセッションが、もーーーう!たまらない。
素晴らし過ぎる。

「あーもう、この子、いい恋愛してきたんだな〜」って
感じの、しみじみとした熱いものが
言葉を介さずして、心の真ん中を揺さぶりかけてくる。


   *     *     *


「感情は、思考とはまったく別次元のもの。
 だから
 思考で感情をコントロールしようとすると
 おかしなことになるのだ。

 感情をしっかり出しきること。
 なくなったと思っても、大抵まだ残っている。
 出して出して、出しきること」

と、わたしのメンターは語る。


・・・でも、もう十分出したよ。

それでも消えずに
にじんだままの影は、
まるで、とびきりの赤ワインをこぼしたシミみたい。


とか思いながらふてくされる夜こそ
この曲の効き目は上々———。
奥の、奥の、奥の、奥、くらいにある感情を引き出す
きっかけになってくれる。

あまり好きな言葉じゃないけど、
「癒される」ってフレーズを
使ってもいいかなって気になる。


   *     *     *


ところで、これまででいちばん歌った曲はなに?
って問いは、結構たやすく答えられる。



このアルバムの中に収録されている、
華原朋美の「MOONLIGHT」。


   *     *     *


わたしにとっても、あなたにとっても
「夜」のとき、「月」はきっとすぐそばにある。

愛しさって、
探すものじゃなく
すぐそばにあるものだ。


スポンサーサイト

05-07

2015

蜷川実花:Self-image@原美術館

おっと。
蜷川実花展、今月10日(日)までなのね。


「無題」2015 (C)mika ninagawa, Courtesy of Tomio Koyama Gallery


「noir」2010 (C)mika ninagawa, Courtesy of Tomio Koyama Gallery


「Self-image」2013 (C)mika ninagawa, Courtesy of Tomio Koyama Gallery
いずれもプレスPHを借用

本展について、言葉にしたいと思いつつ書きそびれていた。


   *     *     *


鮮烈に迫り来る「生」と「死」。
蜷川実花は色やモチーフが独創的と思われる節があるかと思うけど、
わたしにとって、彼女は
「生」と「死」の人。

いいよね、この抗えないものに対するまなざし。
生の概念がなければ、死の概念は存在しえないし
その逆もしかり。
依存とも違う
interdependence的な関係性と、
逼迫したイメージ。
このふたつの概念が強烈にすき。



生と死、それぞれの色について考えてみる。たとえば人間ね。

生とは。
inside/赤(血・パッション・内蔵の色)
outside/ベージュ、黒(肌、目・髪)

死とは。
inside/黒(固体化した血、腐敗)
outside/赤(出血、火葬)

insideとoutsideが真逆になる。
興味深いなー。



じゃあ?
気になるのはこれよね。

生と死の間にあるのは、何色なの?


この展示には、その答えに近づくためのヒントがあるように思った。


シャッターを切るとき、一瞬、呼吸を止めるようにするのも
生と死の間の行為に思えてくる。

もしかしたら、悦楽。
あるいは、目のくらむ程の
おどろおどろしい色。
・・・かも。


   *     *     *


ところでグロテスクという言葉。
イタリア語の“grotta”=地下墓所、洞窟に由来しているそうな。
まるで、光と影の間。

美術におけるグロテスクはいささかニュアンスが異なる。
いわゆるグロテスク様式とは
動植物と人間がないまぜになったようなモチーフを使用したものだそう。
本来は動植物のひとつである人間、
そして、ときに動植物と別物として認識される人間。

概念の交錯、も
生と死の間にある色と似ているような気もする。


   *     *     *


「生」と「死」。

日常の交友関係では
死を感じさせるような会話は
なんとなく避けられるものだけれど、
パラレルな関係として
生と死は必ず同居しているのが世の常。


「PLANT A TREE」2011 (C)mika ninagawa, Courtesy of Tomio Koyama Gallery プレスPHを借用

死が隣にある切迫感といえば、
わたしは真っ先に
アレキサンダー・マックイーンを思い出すわけだけれど、
大多数の人はこれかな?


「If today were the last day of my life,
would I want to do what I am about to do today?

もし今日が人生最後の日だったとしたら、
今日しようとしていることを私はしたいだろうか」

by Steven Paul “Steve” Jobs



でも、蜷川実花展を観て3ヶ月がたったいま
わたしが心に描くのは少し違う。


「If today were the first day of my life,
would I want to do what I am about to do today?

もし今日が人生最初の日だったとしたら、
今日しようとしていることを私はしたいだろうか」


わたしたちは、死のそばであっても
生き続けなければならないのだ。
未知の扉を開きながら。

日々、あらたな日を生き抜こうと思うとき
この言葉は、効果てきめん。


05-04

2015

ガウディ×井上雄彦 - シンクロする創造の源泉 - @兵庫県立美術館

神戸では、毎日、同じ行動パターン。

洋食屋で昼食をいただき
美術展を鑑賞し
夕暮れ時になると近所をおさんぽし
夜になったら簡単な夕食を作って食べる。

繰り返す。
日常とほぼ変わらぬ生活を
繰り返す。

こういう旅って本当に贅沢だと思う。
観光ではなく、暮らす旅。

うん。
しみじみ贅沢だと思う。
そして、すごく、愛おしく思う。


   *     *     *


「海の隣に建つ安藤忠雄の建築」ということと、
この愛おしい日々を思い出すたびに笑顔も呼び起こしてくれそうな
カエルのオブジェにも心惹かれ、
県立美術館で開催されている
「ガウディ×井上雄彦 - シンクロする創造の源泉 - 」へ。
東京のは見逃してしまった、というか、スルーしてしまったのだ。

大学のゼミメイトのひとりが
ガウディを専門にしていたおかげで、
わたしは21歳の頃、週に一度
ガウディの建築に触れる1年間を過ごした。

10年ぶりに触れたガウディから得た
感動は想像以上だった。



なによりこれ。
アントニ・ガウディが語ったとされる
このフレーズ。

「独創性(オリジナリティ)とは
起源(オリジン)に戻ること」

すごーーーーーい。
衝撃過ぎて、ここでも“無”。
はは。意外とたやすいな、“無”の境地。・・・んなこたないけど。


オリジンを突き詰めるって、

 1 思想あるいはコンセプト
 2 作品あるいは商品での表現手法

その両面とも、どんどん削ぎ落として
シンプルあるいはミニマルにしていく行為だと思ってた。

でも、ガウディは違う。
ひとつの建造物に
びっくりするほど多くのパターンの装飾を施す。
たとえば、ファサードの鉄柵でさえ階ごとにデザインを変えていく。

2に挙げた表現手法では、シンプルを極めることはしないのだ。

・・・なぜ?なぜ?


シンクロするように思い出したのは、
もはや世界で知られるブランドとなった、アンリアレイジだった。

デザイナー・森永邦彦氏の大事にする言葉
「神は細部に宿る」と、
途方もない時間と気力を注ぎ、果てしない装飾を施した
ブランドの初期の頃のコレクション・・・だ。


おそらく、シンプルにすべきは
1でも2でもなくって、信念なんだ。

削ぎ落とすべきは、心や記憶の中で
信念のまわりを取り囲む「二次的なもの」なのかも。


一方、
アイディアを含む2の表現方法は、
足しまくった先にしか美が現れないことがあるのかも。

ときに、美には
「足す」という道しかないのかもしれない。
あるいは、
もしそんなときが訪れたとしたなら、
それは神秘的な、人生の試練なのかも。


恐れずに、そして“面倒くさがらずに”(ここ重要!)
煩雑な見せ方にも、にぎやかな見せ方にも
チャレンジすべきときって、ある。


・・・とか思いながら会場を出て、
安藤忠雄の手がけた建物を見渡したときに
少しの違和感を感じてしまったのは、たしかだ。


   *     *     *


削ぎ落とすも、勇気。
一方で、
痛烈に加えるも、勇気。


アントニ・ガウディ ≪大学講堂:横断面≫ 1877年10月22日 ©Càtedra Gaudí プレスPHを借用


≪サグラダ・ファミリア聖堂模型≫ 制作:サグラダ・ファミリア聖堂模型室 ©Junta Constructora del Templo de la Sagrada. All rights reserved. プレスPHを借用


   *     *     *


人生というのは、つながるもので・・・。
本を読んでいたら、突如
思考をもう一歩進めるためのヒントに遭遇。

フセイン・チャラヤン曰く、

「ある物を現代風にするのはその『機能性』だと思います。
モダニズムが形成されたのもそのためです。
そして何かをデザインするというのは、機能があってこそなのです。
デザインは最終的にミニマルに帰着します。
けれどもそこにたくさんのリサーチや思想が詰めこまれているという意味では、
ミニマルではないのかもしれません。
まるでひとつのアイデアを何度も繰り返しふるいにかけていく感じです」
(スザンナ・フランケル著、ヴィジョナリーズ ファッション・デザイナーたちの哲学、2005)


一見すると、ガウディとは
真逆のことを言っているように感じられるかもしれないけれど、

注目すべきは、ここ。

「アイデアを何度も繰り返しふるいにかけていく」

人は、変わり続ける生命体として
多くの思想にインスパイアされるわけだけれど、

わたしたちは、その経験を
自分という人間のフィルターにしっかりと通すべきなのだ。

なぜなら、そうやって
自分の信念を深く、そしてあざやかに昇華することこそが、
人それぞれの起源(オリジン)に近づいていくことだから。

信念のシンプル化に、果てはないということ。


そして、そうして起源に近づく道程にあるもの
あるいは道程そのものこそが、
独創性(オリジナリティ)なのかも。


ちなみにわたしの場合、
インプットしたものをふるいにかけていく方法は、
奇しくも「言葉」によるアウトプットなんだなー。

・・・いつも片言だし、とか言われないよう
言葉マスターめざしたいところ。


プレスPHを借用

(注 触れなかったけど、井上氏の漫画も秀逸!)


05-03

2015

東京発、神戸経由、××行き

東京の雑音がすき。
満員電車の息苦しさがすき。
雑踏に紛れて聴く、イヤフォンから流れる爆音がすき。

真っ白な空間
無音の空間

よりも、

雑然とした空間にこそ
まだ見ぬ真実は眠っているんじゃないか。そう思う。

だから、雑然としたカオス性のあるところも、
東京という街を好きな理由のひとつだ。


と思っていたけれど、
より雑然としているのは
都会ではなく、自然なのではないか。という命題が浮上。
どうなの?どっちなの?


でも今回は、この命題への回答の記述は控えようかなと思う。
この命題、投げかけることはしたいんだけど
その回答よりも優先して書きたいことがあるから。

考えたいと思ってくれる人がいたなら
考えたらいいと思うし、
一緒に話したいと思ってくれる人がいたら
コメントででもキャッチボールできたらいいと思うし。

だから、投げるだけ投げる。


   *     *     *


初めてゆっくりと、神戸に行ってきた。
なにかを訴えようとするのではなく
ただただ魅せようとするような街ですね、神戸。
その佇まいの奥にある心の美のようなものを感じる。
すごく素敵だと思う。


わたしは今まで、32年生きてきた。
けど、
恋愛感情とは別次元でも
心の底から愛しく思う人って
男女あわせてもそこまで多くはなくて。

今回の目的は、そんな貴重なひとりに会うこと。


実は、神戸の街以上に
すっかり魅せられてしまったのが
その方のお家中に響く、自然の音。


ゴーーーーー・・・、と。


レコードを聴いている間も
すこやかに目覚める朝も、
お家のすぐそばを流れる
小さいけれどもとめどない滝の音が響き渡る。

「なにこれ! す、すがすがしい!」
「この気分を表す最適な言葉は、すがすがしい、だ!」
とか思っていたのも束の間、
滝の音は、そんな言葉たちを絡めとると同時に
“言葉にならないコトバ”をも流し去る。

よって、無。
オートマティックに、無になる。
座禅や写経の最中にも、得るのがなかなか難しい心の無だ。

ゴーーーーー・・・、
は身体中に染み渡ったのか、
滝の音は程なくして、無意識の内側にするりと入り込む。


そうして、滝の音の存在は
思い出すようにして、ふとしたときだけ気づくような形になる。



・・・その、あらためて気づいたときの落ち着く感ったら!!

なんなの? この感覚。
「癒されちゃった」って言葉とは違う。
より正確に言うなら、「心と身体がフラットになっていく」感覚だ。

自分の内側にあった言葉と、“言葉にならないコトバ”でできた
凸凹が、シャボン玉みたいに消える。

もちろん、離れた場所に出かけてしばらくすると
その凸凹は元あったとおりに再出現しちゃうんだけど。


滝の音が聴こえているときだけかかる
まるで、魔法みたい。
不思議。


そんなこんなで、冒頭の
都会と自然の「雑音」について考えてみたくなったわけなんだけど。


   *     *     *


わたしは今回もまた
「君は言葉が苦手だよね」と言われた。

そういえば1ヶ月半前、
別の人、これまた前述の理由で貴重な方のひとりからも
「たんみほは感情表現が苦手だよね」と言われたのだった。


当然、言われた瞬間は
なんなの? って感じ。


でもわたしは、うまく紡げない言葉よりも
ゴーーーーー・・・、が生み出す一瞬の魔法を信じたい。
そう思うんだなあ。


それはつまり、
たとえば東京が
「東京」とは別の言葉で呼ばれる街だったとしても
そんなのとは無関係に
わたしは確実にこの街に恋に落ちていた
というのと同じように。


「言葉よりも大切なもの」

それを、恐れずに、誤摩化さずに
見て、伝えていきたいなと
改めて思うのです。
指摘されても、なお。

なにごとも
本質は、言葉とは別のところにあるよね。





   *     *     *


・・・うーん、判然としない言い回しばかりね。

つまり、本質ってなに?
言葉より大切なものってなに?っていうと、

それは、
愛に向かう、インスピレーション。
いまのところ、そう思っている。



今回の旅は、
東京発、神戸経由、愛情行き。
新幹線でも言葉でもなく
インスピレーションに乗車した。


そんなわたしがいま、メッセージしたいのは
愛し愛されようということ。
そして
猛烈に愛そうということだ。

That’s all.

01-13

2015

光からいちばん遠いところにある、億万の光

というフレーズから始まるメモが突然出てきた。

ちょうど1年くらい前だ。
波照間島に星を見に行くひとり旅の記事の取材にいったときのこと。

このメモを書いたのは島についたその日の深夜。
想像通りの潮の香りと、想像以上の幾多の星のきらめきに包まれながら、
遠いところへどんどん駆けていこうとするような自分の心を
追いかけるように書き留めたんだ。


電灯も町灯りも届かない真っ暗なところで視界に入るのは
カメラマンの影と近くで揺れる草っぱたち。
そして、頭上に広がる光だけ。

愛しさも悲しさも、あらゆる感情を持ち寄っても
とうてい勝てそうにないくらいの熱量をまとった星たちには
記憶がにじんでいるように見えたっけ。


「いちばん星! あれ撮れますか!!!?」
と叫んだことさえなつかしい。

FullSizeRender.jpg


「あなたがここにいないということは、
 あなたがここではないどこかにいるということ。

 あなたがここにいないということは、
 あなたがここにいたということ。

 あなたがここにいないということは、
 あなたのことが好きで好きでたまらないということ。」


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。